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本日のコーヒーは、マンデリンG1 です。
インドネシア スマトラ島のマンデリン族の名前
から、つけられました。スマトラマンデリンと呼
ばれ、独特の酸味とコク、苦味のきいた美味しい
コーヒーです。
どうぞ、ごゆっくり、お過ごし下さい。
7月13日、久しぶりに第4回となる「浮き鳥の会」が催されました。
記録によれば、今から156年前の、文久3年2月8日、将軍警護のため近藤勇達浪士隊一行は、小石川伝通院を午前に出立し、中山道を通って勇躍して京へ向かいました。
今回は、旧中山道を巣鴨から、近藤達も歩いた同じ道を板橋宿まで訪ねました。
この目の前 の道を歩いたんですよ、近藤が、土方歳三、沖田が。今でも息遣いが聞こえそうですね。
巣鴨から、直ぐ地蔵通り、旧中山道です。ここは、通称「おばあちゃんの原宿」と言われ、今日も大変な賑わいです。少し歩くと髙岩寺。とげ抜き地蔵様と言った方が通りが早いですね。
ここの地蔵様は、健康、長寿にご利益が大きいと言われております。江戸時代より参拝者が多く、特に毎月4の日の縁日には、境内にお参りする人で大混雑するとの事です。
商店街を過ぎると、巣鴨の庚申塚、猿田彦神社です。ここも往時は人通りの多かった処です。
近くに桜の名所、飛鳥山や王子のお稲荷様があり、江戸時代より春夏秋冬、江戸市民の憩いの名所で、人出も多く江戸名所図にも載っている程です。
やや歩いて、板橋(当時は滝野川)。壽徳寺境外墓地に近藤勇の墓所。近藤、土方の慰霊碑が建ってます。この慰霊碑は、明治に入り永倉新八翁のご尽力によって、明治9年に建立されました。有り難いですね。末永く心に留め置き、お参りをさせていただきます。
本日は、天然理心流 勇武館門人有志に、お参りしていただき、また、お焼香をしていただき、誠に有り難う御座いました。
慶応4年(1868年)4月25日、勇はここからほど近い刑場で断首されました。この光景を宮川勇五郎が語っています。
「この日は、前日の雨で、道はぬかるんで歩きにくく、気温も高く、汗が流れて、とても暑かった。丁度、九つ時(今のお昼頃)、勇叔父さんは、兵士達に警護され、駕籠に乗せられて来ました。刑場に着くと髭を剃ってもらい、江戸城の方角に向って一礼し、何事かつぶやいてから、首穴を前にむしろに座りました。長々とお世話に相成ったと言い、首を前に下げると、小者が襟元を拡げたり世話をやき、やおら刑手が太刀を上段に取り、刀光一閃空を切り、叔父さんの首は切り落とされました」 と。縁者として涙無くして、勇五郎が目撃談を読む事は出来ません。
「他になびかず 義を取り 生を捨つるは 我が尊ぶところ」 と辞世を残し、大儀を全うして生涯を閉じました。享年35歳。
線路を渡り、JR板橋駅西口へ回ると直ぐ、中山道最初の平尾宿です。日本橋より2里9丁(約9km)で、駕籠屋、問屋場等が置かれていました。
板橋宿は、今でも家並み、人通り等は往時の面影を随所に残しています。地図やサイン、案内板などが豊富で、行政の歴史を伝える努力を評価出来ます。
板橋宿は、本陣、脇本陣など用意されてはいましたが、あまり大きくはなかったようです。主に江戸を出立する人の見送りや、江戸に入る人の出迎えに一休みする人が利用していたようです。
近藤勇も4月、流山で捕らえられ調べられた後、ここ板橋宿の脇本陣 豊田家で25日まで、過ごしたとの事です。
板橋仲宿を過ぎると石神井川、ここに架かる橋が板で出来ていたので「板橋」と名付けられた由。 納得! 納得!
日本橋より2里25丁との事で約11km位ですか。
近藤達浪士組一行も、小石川伝通院を午前中に出立しましたから、お昼過ぎにこの「板橋」を渡ったのでしょうか。
この板橋を近藤達浪士隊一行は元気に渡り、一路 激動の京へ向かいました。2月23日に無事に京都三条大橋に到着、お昼頃 壬生村に入りました。
いよいよですね。新選組の登場は。