3月21日、甲府城址と武田神社を初めて訪ねました。
慶応4年3月(1868年)、近藤達新選組、徳川恩顧の各藩藩士で組織された甲陽鎮撫隊は、西軍の江戸入城を阻む為、西の守りである甲府城の受け取りに向け、江戸表を出立しました。
今回は、甲陽鎮撫隊が甲府を目指した甲州街道を、甲府まで行く日帰りの旅ですが、もう一つ、勇武館は、4月7日(日)、武田神社甲陽武能殿で行われます、「御鎮座百年記念 武田神社武技奉納」演武に参加させていただきますので、演武場の下見を兼ねていました。
中央高速を上野原で降り、甲州街道を西へ、日本3奇橋の一つで有名な猿橋、広重の絵にもあります。新選組が江戸へ敗走時、斬り落とせと云った藩士がいたが、近藤が強く引き止めたと、一説にあります。
大月を過ぎると、間もなく笹子トンネルの手前、案内板にしたがって左折、古道の笹子峠へ、つづら折りの急な登りと深い谷、高い峰々、雪でぬかるんだ急坂を登り、疲労困憊した近藤達の峠越えが偲ばれます。頂上近く、樹齢千年を超すといわれている天然記念物「矢立の杉」が繁っています。 戦国時代、ここを通る武将達が戦勝を祈願して矢を射ったと言われています。今は、絶好の休みどころです。
峠を越え一気に下ると駒飼宿に着きます。往時は栄えた宿場で、明治天皇も明治13年6月、山梨行幸の折、小休止したと記念碑が建っています。甲陽鎮撫隊は、3月4日、一先ずここに陣を張りました。 この宿場から甲府盆地は目の下になります。
宿場から駒飼橋を渡ると、すぐに甲州街道に合います。広い国道を下りますと勝沼、笛吹、石和 と過ぎて甲府駅。隣が甲府城址公園。大きく立派な石垣と城門です。
秀吉が天下統一してから、関東の徳川を見張る為、浅野長政らに命じて築城しましたが、関ヶ原以降、徳川家一門が城主となり、幕末まで続きました。
天主台から見下ろす甲府盆地は、四方を高い山々に囲まれ、軍事的にも、農・工・商業的にも恵まれた、実り豊かな領地だったと実感出来ます。
歴史上では、常に「れば・たれ」がつきも之ですが、近藤達があと数日早く入城出来ればどんな展開になったか興味も湧きますね。
武田神社
文字通り、武田信玄公を御祭神として、建てられた神社です。
戦国時代の永正16年(1519)武田家の居館として築かれましたが、天正10年(1582)に武田家滅亡後、秀吉が南に位置する甲府城を築城し、以後、甲府城が政治的な中心地として役割を果たしましたので、慶長5年(1600)破却されたようです。
江戸時代も「古城」、「御屋形跡」と呼称されていました。信玄公が名言した 「人は石垣・人は城・情けは味方・仇は敵」 は今の世にあっても、決しておろそかにしてはいけない言葉です。
信玄公の強さは、「人」 を大事にする気持ちを領民が納得して従ってからでしょう。時移り、明治期に入りますと、武田家が再認識され、神社再建運動が広がり、大正8年(1919)に社殿が竣工されました。毎年4月、例大祭が執り行われます。また、この日は甲陽武能殿で武技奉納演武が行われます。
私共、天然理心流勇武館も今年初めて、この晴れがましい日に、演武をさせていただく事になりました。神殿にここより御礼申し上げ、手を合わせ、当日の無事の演武をお祈り申し上げました。
帰途に、近藤達が西軍と激戦を交わした柏尾山に立ち寄りました。
資料によると、近藤達甲陽鎮撫隊は、3月6日、甲府盆地を見下ろす、ここ栃尾山に柵を設け、西軍と対峙します。戦闘は正午頃より始まり、近藤達も善戦しましたが、圧倒的な兵力、火力の差では如何ともし難く、三方からの銃撃に約2時間ほどで敗走したとあります。近くの大善寺の山門には銃弾の跡が見えるとの事ですが、気がつきませんでした。
柏尾山の柵跡に立ち、甲府盆地を見下ろすと甲府城は、指呼出来るほどの近さです。近藤達の無念さが心をよぎります。
ずっと以前、ここに参った時は木製の粗末な柱に「近藤勇 柏尾山古戦場」と記した道標のみがでしたが、今は、立派な石像とステンレスの案内板、ベンチまでも置かれてたおり、見学者の多い事が察せられます。こんなに大事にされて、生家子孫として大変うれしいです。有難うございます。
甲府盆地の夜景も色とりどりで、美しいですね。 近藤も春先には、ここでお城を眺めているのかも。 151年前の事。 ぐっとこらえながら。