10月27日、縁あって旧東海道箱根古道を歩いて来ました。
かねてより、機会が有りましてら近藤勇や土方歳三達も歩いた、「箱根八里」の古道を一度は歩いてみたいと思っておりました。
♪♪~
「箱根八里」
箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず
万丈の山 千尋の谷 前にそびえ 後に支ふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす 昼なお暗き杉の並木
羊腸の小径は 苔滑らか 一夫関に当るや 万夫も開くなし
天下に旅する剛毅の武士 大刀腰に 足駄がけ
八里の岩根 踏み鳴らす 斯くこそありしか 往時の武士
この「箱根八里」とは、小田原から箱根の関所までの四里と、関所から三島までの四里を言うのだそうです。
今回は、湯本畑宿から箱根の関所まで約3時間の道のりを歩きました。実際に歩きますと前述の唱歌 「箱根八里」 の歌詞の通り、大変な難路で、一言で云って全く歌詞と同感の体験をしました。
つづら折りの石畳の細道をひたすら登ります。杉の大木に覆われた石畳の細道は、歩く人も少ないのでしょう、苔むして往時のままです。
つづら折りの古道は、小休止する度に登りがきつくなり、周りの山々は高くなり、谷は深くなり、「箱根八里」に納得しました。
この、箱根古道は14代将軍 家茂公が文久3年に上洛する為、急遽、道幅を広げ、石を敷き詰め石畳に施工したとの事です。
在の古老の話によると、家茂公が関所に到着されても、供徒士の一行は未だ畑宿を出たばかりで、その行列はおおよそ3キロも続いたそうです。とても難儀しながら登った様子がうかがえます。
近藤勇が元治元年(1864)9月、将軍上洛要請と隊士募集で東帰した折や、翌慶応元年(1865)に土方が東帰した時も、この難路を越えて江戸に入っていたのでしょうか。
幕末期の多忙の最中では、物見遊山の気分でなかったとはいえ、小休止する度に目にする箱根の山々の情景は、今日と同じだったことでしょう。
なぜか、懐かしさと嬉しさ、そして親近の情の湧くのを憶えました。
道中半ばにある「甘酒茶屋」には、当時の「山駕籠」や「馬止め」が現存されてます。ここを過ぎるとまもなく権現坂、道もやや下りなり、遥かに芦ノ湖が望まれます。今でも残る大杉の並木を行くと、ものものしい門構えの「箱根関所」に到着。
映画では、番所の武士に怒鳴られながら、恐る恐る通行手形を差し出す場面がよくありますが、理解できますね。 こわそう!
すっきりと晴れ渡った青空、温かい陽がふりそそぐ箱根の山々は、紅葉が始まったばかり。少々苦労しましたが、楽しいウォーキング日和の一日でした。
山中では、急ぎ旅の勇達一行とすれ違った気配をふっと感じ、振りむきますと、通り過ぎた一陣の風で、すすきの穂が大きく揺れていました。
帰りの車中でうとうとしてると、やっぱり勇が 「おめぇーも、よく登ったなー。おれも永倉もへたばったぐれーだ。てぇへんだったべー」 なつかしい調布言葉で声をかけてくれた気が・・・・・・・・・。 まぁ!まぁ!まぁ! そっとしておいて下さい。
※ 当時、16歳の明治天皇も、明治元年(1868)9月、京都より東海道を下り、箱根を
越えて10月に江戸城に入り、東京城と改称したとあります。