10月16日、秋の筑波山に登ってきました。

10月16日、秋の筑波山に登ってきました。

 久しぶりに快晴の週末となり、100名山の一つ、筑波山は家族ずれの登山者で、大変な混雑でした。

 山頂近くの休み場では、苦労して登った事も忘れたかのように、皆さん、おもいおもいに、お弁当を広げ、楽しげに食していました。微笑ましいですね。

 頂上から見渡す秋の関東平野は、取り入れの終わった稲田が広がり、遠く望まれる上信国境の山々、日光連山は静かに冬を迎えようと、たたずんでいました。

 筑波山神社の境内では、秋の日差しを受けながら、有名な 「がまの油売り」 実演の口上が人気で見物人の輪が出来ていました。なつかしい。

 里山の農家の庭先には、みかんが色づき、柿の木には、富有柿がたわわに実っていて、思わず手を出したくなりました。 「もし!もし!・・・」 と声がかかりそうで手を引きました。

 筑波山周辺は、遠く奈良時代より多くの和歌が詠まれており、また、万葉集にも数多く編集されています。

 また、筑波は連歌の発祥の地でもあります。有名な連歌発祥の歌が碑にきざまれています。

 倭 建 命

「 にひばり つくばをすぎて いくよかねつる 」

 御 火 焼 の老人

「 かがなべて よには ここのよ ひには とをかを 」

説明文によりますと・・・「古事記」によれば、ヤマト タケルノミコト が東征の帰り道、甲斐(山梨・甲府)酒折の宮に、お着きになった時、 「常陸の新治(土浦)、筑波を過ぎて幾夜、寝たのだろうか」 と詠われたところ、御火焼の老人が 「日数重ね、夜には九夜、日には十日です」 とお答えした。・・・・これが連歌の初めてとされ、以降、連歌を「筑波の道」というようになった。・・・・とあります。

 連歌とは、皆さんご存じの和歌の上句と下句とに相当する五・七・五の長句と七・七の短句との唱和を基本とする詩歌です。

 倭建命の詠んだ句が、始まりとは知りませんでした。 彼は、土浦・筑波から箱根近くの足柄、甲府、信濃、尾張、伊吹山を経て能煩野で病の為、亡くなりました。大和への望郷の念は、もう少しの所で叶いませんでした。

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