11月23日、「板橋は江戸府内!」という幟に迎えられ、板橋区立郷土資料館で開かれている 四館共同企画「幕末動乱~開国から攘夷~」展を見学して参りました。
資料館は、都営地下鉄「西高島平」駅近くの溜池公園(旧赤塚城址)の一角にあります。
この地は、昔、徳丸ヶ原と呼ばれ、天保12年(1841・勇7歳の時)時の老中水野忠邦の許しを得て、長崎奉行 高島秋帆が、我が国初めての三兵戦術(砲兵、騎兵、歩兵)の洋式軍事調練を披露したところで有名です。
この、洋式軍事調練を見学した勝海舟や幕臣、著名な剣術家、各藩の軍事担当者は、整然として、きびきびと行動する歩兵、騎兵を目の当たりにし、これからの藩士たちはかく有るべきと、自藩の軍制改革を急速に進めたとあります。
また、この調練から間もなく、旧来の古式砲術、弓矢、なぎなた等は武器・戦術として不要となり、すたれていった様です。
板橋宿は、中仙道の人々の往来、生活、物資の流通に欠かせない大変重要な宿場でした。
幕府存続の最後の切り札として登場した「公武合体」。
この公武合体の象徴として、14代将軍徳川家茂公に降嫁した皇女和宮も、ここ板橋宿で江戸での最初の一夜を過ごされました。
記録によりますと、文久元年(1861・勇27歳の時)10月20日、京を御出立された皇女和宮様ご一行は、中仙道から江戸へ向かい、11月13日に中仙道桶川宿泊、翌14日、桶川宿を虎の半刻(現在の午前4時頃)にご出発、昼休を浦和宿、午休を蕨宿でとられ、夕刻に板橋宿ご到着としてあります。
また、幕府は中仙道を、ご一行が通過される3日前から一般人の通行を禁止し、徳川慶喜自ら先頭にたって厳重に警護し、当時、板橋宿で有名だった古木「縁切り榎」も急遽、菰をかぶせ、廻り道を造って通したとの事です。
板橋宿は、近藤勇が下総流山で投降し、粕壁からこの地に護送され、断首の刑に処せられた処でもあります。
宮川勇五郎がこの場に居合わせ、語り残しております。「勇叔父さんと自然に目が合い、うなずきあった。勇叔父さんは何言か語り、東の方角に向かって深く一礼した後、「ながらく、お世話に相成った」 と礼をいい、着座し刑を促した」と。
時に慶応4年(1868・勇35歳)4月25日、雨上がりの汗ばむような暑い晴れ日だったといいます。
私共も、この勇五郎の語りを読むとき、親族として勇の無念の心境が胸を打ち、涙なくして読み続ける事が出来なくなること、度々でした。