2月3日~5日まで、戊辰の役150年の京都、新選組ゆかりの各地を巡り慰霊の手向けをして参りました。
2月3日
今年は戊辰の役150年にあたります。
文久3年、新選組はかの地で発足し、幕末動乱で荒れる皇城の地の安寧と尽忠報国・尊王攘夷の志を熱く抱いて活躍しました。時が経ち、時勢が大政奉還を促し、慶応4年1月、戊辰の役が勃発、幕軍は敗れ、将軍は東帰し徳川幕府は終焉を迎えました。
今回の京都旅行は、新選組ゆかりの地を訪れ、ありし日の新選組に思いを馳せる慰霊の旅ででもあります。
まず、京都淀の妙教寺様を訪ね、松井ご住職様にご挨拶致し、お話を伺いました。
「慶応4年1月5日、新選組は会津藩兵達と、ここ淀千両松に陣を張り、戦いました。当日は猛烈な北風が吹き、寒さも厳しく、幕軍を大変悩ませました。戦況も時と共に西軍の最新な火器、弾薬に圧倒され、ついに大阪へ退いて行った」 との事です。土方達の無念な思いが胸を打ちました。
競馬場横の「戊辰の役東軍殉難者慰霊碑」に刻まれている新選組、幕府軍諸隊士の霊に、心安かれとお祈りし、お焼香しました。
2月4日
朝一番にて、壬生寺へ御参り、松浦貫主様より 「遠路、わざわざと」 とのお言葉をいただき、壬生塚に詣でました。
昨3日まで、壬生狂言が上演されていた由、近藤達も珍しげに観劇したであろう壬生狂言、次回はぜひ拝見したいものです。
前川邸跡に訪ね、田野一十士氏にご挨拶し、続いて光縁寺様に伺い、墓地に眠る山南敬助など多くの新選組隊士の霊に手お合わせました。墓地には、天満屋事件で落命した宮川分家、宮川信吉の墓もあります。
京都御所、文久3年の8月政変、元治元年7月の蛤御門の変で、新選組も面目躍如の活躍をしました。
広大な御所の警備にかかわり、「誠」の旗を掲げ意気軒昂の日々でした。彼達の勇姿を垣間みる思いでした。
黒谷の金戒光明寺、会津守護職松平容保公の本陣です。城門のようにそびえ立つ山門を近藤達は、緊張しながらも誇らしげにくぐり、方丈の間で殿様に謁見していたのでしょう。 今でもこの門をくぐると、胸が高鳴り、容保公と勇達とは強い絆で結ばれていた事を実感します。光明寺横の石段を登り、会津墓地へ。遠いふるさとを想いはせながら願い叶わず、ここに眠る多くの会津藩士の霊に心安らかにと祈り、手お合わせました。
2月5日
鴨川の三条河原に降り、近藤勇の首が晒されて辺りのところで、150年の節目、あらためて縁者として手を合わせました。
佐倉藩士だった依田百川が、晒されている近藤の首をみて 「まるで生きているようだった」と書いています。
勇は 「義」 の為に奉じた 「尽忠報国」 の志に悔いはなく、心安らかだったのでっしょう。
辞世に 「義を取り 生を捨つるは わが尊ぶところ
快く受けん電光三尺の剣 只 将に 一死を以て君恩に報いん」
と認めています。
三条大橋を渡って建仁寺へまいり、国宝特別公開、俵屋宗達の描いた有名な 「風神 雷神」 (株式会社キャノンが複製) の図をはじめ多くの襖絵を拝見しました。率直にうれしいですね。貴重な作品が目の当たりに出来て。しかも写真も撮れました。
その後、嵐山へ廻り、嵯峨天皇の御所だった、 大覚寺に詣で、静かで美しい大沢の池を巡り、帰りに太秦広隆寺に参り拝観した来ました。
広隆寺は聖徳太子が建立した寺院の一つで、新霊宝殿には飛鳥時代に作られた弥勒菩薩像が安置されています。
この像は、国宝第一号に認定された国宝中の国宝です。案内書には、 「この弥勒菩薩は御釈迦様にかわってすべての悩み、苦しみをお救いくださり、正しい道へとお導き下さる慈悲の仏様」 と記されています。
近藤勇達、新選組が活躍した京都での5年の歳月は、激動する日本歴史の中では、ほんの数行かもしれません。が、まぎれもない歴史的事実でもあります。
これからも永遠に我々の記憶のなかに残って行く事でしょう。国を思う気持ちは誰しも持っています。大義の旗を掲げ、命をはって生を全うした彼らを、私達は心から敬ってまいります。
忙しい2泊3日の京都旅行でしたが、今回もまた、新しい出会い、めぐり合いがあり有意義な旅行でした。
浅黄色の隊服を纏った、近藤が、新選組隊士たちが 「また来いよ!」 と言う声を背に受け、「よぉーし! またなっ!」 と 新幹線に乗りました。