令和3年10月24日、茨城 大洗磯前神社にお参りしてきました。

 いらっしゃいませ!   ようこそ!

   ~   Isami    Cafe  ~ へ

  本日のコーヒーは、「インドネシア カロシ」です。
  インドネシアでのコーヒーは、ジャワ島、スマトラ島等で生産
  されています。
  トラジャカロシはアラビカ種です。「幻のコーヒー」とも呼ばれ、
  蘇った名品です。香りに優れ、コクも十分で、しっかりとした、
  美味しい苦味優先のコーヒーファンに満足されている逸品です。

     どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい。


 10月24日、茨城 大洗磯前神社にお参りしてきました。大洗磯前神社は、大洗海岸の高台
 にあります。ご祭神は大己貴命。
 人々の難儀を救うため、常陸国大洗の地に降臨され、斎衛3年(856年)、大洗磯前神社を創建
 されました。疫病鎮静の神様として有名です。

 10月24日、縁あって初めて、大洗磯前神社にお参りさせていただきました。

 境内から見下ろす太平洋の眺望は素晴らしく、見ていて時を忘れる程。心が洗われ、
 清々しくなります。
 ぜひ、御一見を。

 また、境内にはパワースポットも多く、お目当ての参拝客も沢山、お参りしてました。

 太平洋の波が打ち寄せる磯前には、ご祭神ご降臨された場所に鳥居も建っていて元旦には、初日の出を
拝むため大勢の信者で、大変な混雑振りとの事です。

 元治元年3月(1864年)、水戸藩の尊皇攘夷過激派が武器を携え、筑波山で攘夷を求めて挙兵し、
 日本中を驚かせしました。

天狗党の筑波山挙兵の図

 近藤勇はこの情報を元治元年5月20日付けで、立川の天然理心流門人、中島次郎兵衛宛て書簡を
送っています。

 その内容の一部。

 「~~野州浪士共相集り蜂起之趣、伝聞仕候へ共 此度浪士杯と唱ひ候へ共 全而百姓ぶらいの者由 
 尤先日京地おいて 右徒頭分召捕り取調候へ共 敢大事ニも無之哉と奉存候 乍併小事より大災も醸シ
 候事 難斗候~~」

 要約 「野州浪士(天狗党)、蜂起のうわさが京へも伝わりましたが、この度は浪士などと唱えて
     いますが、多くは百姓ぶらいの者どもです。先日、京都にても徒党の頭を召し捕りましたが、
     別に大事もありません。しかし、小事より大災を醸し出す事もあり、如何ともし難い事です。」


 筑波山で挙兵した天狗党は、その後 軍資金、糧秣を求め近郷、近在の農家や商家を襲い狼藉をを重ねた
 為、幕府は天狗党を鎮圧するため水戸藩、土浦藩など、関東各藩に出兵を求め、戦いは拡大しました。

 同年8月、那珂湊(現ひたちなか市)では、数度の戦が繰り返されました。
 那珂湊は、大洗磯前神社のすぐ隣の都市で、従前より漁業、農業、商業が盛んで、大変栄えて
 いる都市でした。
 両軍、激しい戦の末、天狗党は敗れました。この戦いでは、行方郡玉造の郷士 芹沢貞幹の三男
 庄七も天狗党に加わり戦いましたが、戦死したとの記録があります。

 那珂湊で敗れた天狗党は、その後 徳川慶喜に攘夷の嘆願書を提出する為、京を目指して中山道を西上
 しましたが、道中の各藩とたびたびの戦で戦力を消耗し、同年12月、厳冬の越前ではこれ以上、
 戦いは不可能と、越前福井の新保で降伏しました。
 当初3,000人を超える志士達がいましたが、降伏時は800人程に激減してました。指導者の多くは
 死罪、他は遠島などの厳しい処断が下されました。

 水戸藩は尊皇攘夷過激派の桜田門外の変、坂下門外の変、そして天狗党の挙兵と相次ぐ決起で、
 前途有為な人材の殆どを失い、以降、幕末、維新史から姿を消しました。

 徳川御三家の一翼を担い、徳川幕府250年を支えた水戸藩は、水戸学の教えを礎として高潔な尊皇攘夷
 の魁けならんとしましたが、幕末の複雑な政治の流れの中で、その願いは叶いませんでした。  
 

 残念です。

コメントを残す