いらっしゃいませ! ようこそ!
~ Isami Cafe ~ へ
本日のコーヒーは、「コロンビア EX」(エキセルソ)です。
コロンビアは、世界有数のコーヒーの生産国で、特にアラビカ
種には、最適な環境にあり、コロンビア マイルドと言われ、
トップランクです。しっかりとした苦味と豊かな酸味、コクが
あります。EXとは、豆の大きさを表し、コロンビアの上級品
です。
どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい。
4月11日、今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公 渋沢栄一の出身地、深谷市の血洗島へ行ってきました。
研究者によると、渋沢栄一は近藤勇と慶応2年(1866年)10月、京都で2度ほど会っていると自著に書かれており、勇について、「温厚で物事の分かる人物」と感じたそうです。
我が家に近藤勇の書状があります。その一つに、京都から慶応2年10月に届いた書状があり、内容は、新選組大石鍬次郎の弟が家督を相続するにあたり、一橋家の家臣と打ち合わせした事が記されています。
渋沢栄一の自著に書かれている、近藤と二度ほど会ったと言う内容と時期が合い、もしや?この手紙の一件で と思うと不思議なご縁で興味が湧きました。研究者の方に教えていただければ幸いです。
また、ドラマの6回目に出て来た真田範之助と言う剣客は、八王子出身で、はじめ天然理心流を学んだ後、北辰一刀流を修めたとの事です。
幕末の史実は意外に、近藤勇達新選組との出会い、関わりあいが多いものですね。
渋沢栄一は、近代日本経済の父として、つとに有名で、次期1万円札の肖像画に活用されますね。生まれは天保11年、勇より6才下。幼少よりなかなかの利発で父の教えを守り、物事の道理をわきまえ、成人しました。
長じて、幕末の一時、勤王倒幕の志士にかぶれましたが、縁あって一橋家の家臣として仕えるようになり、維新以後は、近代日本経済の父として約500もの企業を起こし、日本経済の発展に貢献し、昭和6年に亡くなりました。享年91才。正に「偉人」でした。
渋沢栄一は近藤勇とのご縁があり、私も、とても親近感を持っています。写真の通り大人物です。
渋沢家は深谷 血洗島の豪農だったのですね。生家も立派でした。
渋沢栄一は、勉強家だったのですね。早くから従兄弟の尾高惇忠から論語を学び、勤王攘夷思想を学び、一時は倒幕派志士に傾きかけました。
その尾高惇忠は、天保元年(1830年)生まれ、勇より5才年上。水戸学に精通し、過激な尊皇攘夷思想から、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画を立てたりしました。生家には、この密議をした部屋も現存しています。薄暗い部屋の奥をのぞくと、幕末期、この地も血気盛んな若者達が日本の将来を見つめ、攘夷実行へ走る激しい息遣いを感じました。
尾高惇忠は、維新後、富岡製糸場初代場長、第一国立銀行仙台支店長などを務め、幅広く活躍したとの事です。
明治34年(1901)没。享年71才
生家もとても広く立派でした。この地の富豪で、商家建物の面影を今に残す貴重な建造物。現在は深谷市の文化財として保存されています。
渋沢栄一の原点は、深谷にある!。「青天を衝け」の深谷大河ドラマ館を見学。(深谷公民館。来年1月10日迄開催)
場内は、ドラマの時代背景、年表、登場人物、エピソードのほか、生家のセット、衣裳、小道具などがコンパクトに紹介されていて、大変見やすく、楽しみました。
帰りに、JR深谷駅に立ち寄りました。関東の駅100選にも選ばれていて、駅舎は東京駅をモチーフに、赤レンガ風タイルで造られ、鉄道ファンに人気です。また、駅前広場には、渋沢栄一がどっかと座っています。
深谷市の中央に深谷城址公園があります。築城は群雄割拠の室町時代。湿地を利用した平城で難攻不落のお城だった由。上杉家の関東地方の拠点で、200年以上にわたり、深谷の中心地で栄えていましたが、江戸時代初期に廃城になりました。
今は、深谷城址公園となっていて、外堀の遺構を残すのみですが、カメラを向けると、強者達の姿が見えそうで、往時を偲ばせます。なかなかのお城だったと思います。
毎週、大河ドラマ「青天を衝け」を楽しみに見ています。皆さんも幕末から明治、大正、昭和への変遷を身近に感じながら、見ていただけたら、うれしい。
日帰りでも、「温故知新」の旅、楽しみました。有り難う御座いました。